nihonni-zetubou’s diary

集団ストーカーに足を引っ張られながら生きています。被害の記録と趣味、食べること。ほしいのは金。

戦後1世紀も絶たないうちに、日本は戦争する国になるのかな?

ガッコの勉強で太平洋戦争に関して覚えてることはないです。

勉強熱心とは真逆の子供でしたが、

(だって面白くないし。)加害と殺戮の歴史、都合悪いのでそら子供に教えたくないだろう、と

今では思っている。

唯一の学生時代の自慢と言えば、

日本国歌君が代の歌詞すら覚えてないこと」くらいかな。↩冒頭のみ。それすら忘れたい。

 

戦争で日本人が何をやってきたのか、というのは大人になってから、

オンラインや書籍で知ったことだ。

ちなみに何かと言うと「日本人を侮辱!」とキレる、

公営強制性奴隷施設(慰安婦)も本当にあったことだ。

腹の底からヘドが出る。

 

www.chosyu-journal.jp

一部転載

” 10万人以上の都民が焼き殺される大空襲のなかでも、

皇居、国会議事堂、議員官舎のある永田町をはじめ、丸の内の金融街などは攻撃目標から外され、涼しげにたたずんでいたといわれる。


 その一方で、上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちが生きるために窃盗や売春をおこなっていたこと、GHQが「治安対策」を名目にして犯罪の有無に関わらず浮浪児を見つけ次第摘発していったことも、戦争が生み出した悲劇として伝えられている。この「狩り込み」を受けた孤児たちは、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致され、檻(おり)に入れられて監視・収容されたという。


 浅草で商売を営む80代の男性は、「皇居と東京駅に挟まれた丸の内近辺は攻撃されず、その中心にあった第一生命ビルには戦後GHQの本部が置かれた。国会議事堂や議員官舎も戦後処理に必要だから残された。マッカーサーが厚木に到着する前に武装解除をさせたが、その後も米兵は常に拳銃や小銃を携行し、自分たちが大空襲をやった相手の都民を相当に恐れていた。だが、都民にとって戦後最大の苦しみは食料がないことだった。米は供出させられ、お金があっても買う物がないし、物々交換するものすらない。田舎につてがなければ乞食同然で、今日、明日の食べるものがなく生きていくことがたたかいだった。 ”

 

戦争は、右翼が美化しがちですが、

毎度毎度、おエライサンは安全な後方でのんびりし、

前方の兵士が無残に死に、その国の庶民は無残に惨殺され、

権力機関は適当に攻撃対象から外れる、

というどうしようもない物なので、私は参加する気も賛成する気もないです。

 

米国にはNO,どころか自分から尻尾振っていく米国の下請け、日本政府。

いずれ痛い目を見るのは、また庶民だ。